橋倉藩では、118年前から藩主を本家と分家から交互に出していた。
藩主に仕える近習目付も二人おり、一人は長沢圭史、もう一人は団藤匠。
二人は親友同士で、ともに67歳。
かつて藩に大きな改革をもたらした「鉢花衆」の子孫であり、ともすれば対立しかねない藩主両家のバランスを長く保ってきた。
しかし妻子を亡くしている圭史には跡目がおらず、体が衰えたこともあり、隠居を決めた。
そんな折、次期藩主が急逝したために、前藩主の重政が交代制をやめて本家に任せることを決断。
これにより藩は分裂の危機がなくなり、圭史は名実ともに役目から解放された。
国にも圭史にも、ようやく「春」が訪れたのだ。
ところがその矢先、重政が何者かに暗殺されてしまった。
せっかくこれから平和になるはずだったのに、一体誰が……。
圭史と匠はそれぞれに事件を追うが、やがて「鉢花衆」にまつわる凄惨な過去が明らかになり――。
事件を追うごとに秘められた過去が……
『やっと訪れた春に』は、江戸時代を舞台に架空の藩である橋倉藩での暗殺事件を描いた時代劇ミステリーです。
時代劇ならではの荘厳な空気が漂っており、かつミステリーならではの謎を追う面白さもあり、どちらが好きな方にも楽しめる作品となっています。
物語は、主人公の長沢圭史67歳が、長年務めてきた近習目付の御役目を退くところから始まります。
隠居して第二の人生を謳歌しようとするのですが、それを阻むかのように殺人事件が起きてしまうのです。
犯人の目星はつかず、犯行動機も全くわからず、藩を案じた圭史は独自に犯人探しを始めます。
見どころは、圭史が事件を追う過程で、自身の秘められた過去を知っていく部分。
橋倉藩ではかつて「御成敗」と呼ばれる粛清が行われ、功労者たちは「鉢花衆」として皆から崇められていました。
圭史と匠はどちらも「鉢花衆」の子孫なのですが、圭史は父親が早くに亡くなっていることから、あまり詳しいことを聞かされていません。
それが、犯人探しという全く無関係に思えるところから、どんどん明かされていくのです。
まさかまさかと思いながら過去の真実に翻弄される圭史の焦燥は、そのまま読者のハラハラ感となり、このあたりからページをめくる手がスピードアップ!
武士としての業や因縁、葛藤が渦巻き、その重さに目が離せなくなります。
また「鉢花衆」には、圭史と匠以外にもう一人「いるかいないかもわからぬ一名」が存在するらしく、そこも大事なポイントです。
なかなか正体が明かされず、因縁にどう関わっているのか、とにかく不気味。
さらに第二の殺人も起こり、しかもその被害者が実は… … …と、ここはネタバレになるので明かしませんが、ますますドキドキの止まらない展開になっていきます。
武士として生きること、自分らしく生きること
『やっと訪れた春に』を読む上で、もうひとつ注目していただきたいポイントが、武家社会の理不尽さです。
封建時代の武士は、己の考えも感情さえも封印するのが当たり前であり、武家に生まれた以上、家に逆らうことは許されませんでした。
そして武士の中でも特に業の深い「鉢花衆」の血筋である圭史と匠は、幼い頃から徹底的に肉体・精神の鍛錬を積まされてきました。
その内容があまりにも壮絶で、読みながら目を背けたくなるほど。
特に衝撃的なのは「斬気」で、これは必要な時に躊躇うことなく人をズバッと斬る気合い的なものです。
これを養うために圭史も匠も、日々屍体を斬らされました。
どこからか仕入れてきたいわくありげな屍体を、来る日も来る日もバッサバッサと。
屍体も無限にあるわけではないので、何度か斬りつけた後は縫い合わせて再利用。
武家とはいえ残酷すぎる鍛錬であり、圭史はこれを疑問視していました。
だからこそ齢67にしてようやく得た「春」を、圭史は本当に大切に思っていたのですね。
そんな時に前藩主が殺されたのですから、やりきれません。
また作中では、圭史が梅仕事(梅の木の世話や梅干し作り)をしている様子がよく描かれています。
圭史の屋敷にある梅の木は龍を思わせるほど立派であり、長年丹念に世話してきたことがわかります。
これは圭史の家族を投影したものであり、早くに妻や息子を亡くした圭史は、梅の木を見ては家族を思い、実を漬けては妻と対話していたのです。
繰り返し出てくるこの梅仕事のシーンはとても穏やかで美しく、「斬気」のための凄惨な日々があったからこそ、作中でまばゆい光を放っています。
圭史にとってかけがえのない時間であることが伝わってきますし、作品においても非常に大事な部分です。
武士として生きることと自分らしく生きることは相反していますし、「家」を思うことと「家族」を思うこともまた武家においては真逆。
理不尽な中で心を封印してきた者が、いかにして真の「春」を得ることができるのか。
『やっと訪れた春に』は、そこを読者にも深く考えさせてくれます。
深みと凄みが読者を引き込む
『やっと訪れた春に』の作者・青山文平さんは、2011年に松本清張賞を受賞してデビューして以来、大藪春彦賞、直木賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞と、数々の文学賞を受賞してこられた作家さんです。
「このミステリーがすごい! 」でランクインしたこともあります。
これだけの実力派ですから、『やっと訪れた春に』もやはり素晴らしく「読ませる作品」であり、深みと凄みとで読者をどんどん物語の奥へと引っ張り込んでいきます。
時代小説ではありますが言葉遣いが硬すぎることはなく、むしろ読みやすい文体。
ミステリー部分も秀逸で、殺人犯と犯行動機を探りながら自分のルーツも探るという二重の謎解きは、その悲劇的な絡まり具合から読者を退屈させません。
何より「春」に含まれている意味がとても重く、読みながら胸にじわじわと染み入ってきます。
色々な年代の方に読んでいただきたい一冊ですが、余生や第二の人生を意識する年代の方には、特に味わい深く読めると思います。
ぜひご堪能を!