ある事情から仕事を辞め、アパートに引きこもっていた一香は、半年ぶりに働くことにした。
古い洋館で調香師をしている青年・小川朔のもとで、家事手伝い兼、事務、接客をする仕事だった。
朔は天才的な嗅覚を持っており、人の持ち物、暮らしぶり、さらには気持ちや嘘まで香りで言い当てることができた。
一香自身、カバンの中身や、長く引きこもっていたことさえも見抜かれてしまう。
それでも仕事しなければ生きていけないため、朔の神経質なくらいデリケートな指示に従い、懸命に働く一香。
しかし一緒に過ごすうちに一香は、朔が天才であるがゆえに抱いている孤独に気が付き、自分も傷を持っていることから親しみを感じるようになる。
そのおかげもあり傷は徐々に癒えてきたが、ところがある日、朔が作った過去をイメージした香りが悲劇を招く。
一香が胸の奥に封印していた辛い記憶が、香りによって呼び覚まされてしまったのだ。
第6回渡辺淳一文学賞を受賞した話題作!
香りは心とともに変化する
『透明な夜の香り』は、香りが秘めた可能性をしっとりと描き出したヒューマンドラマです。
様々な香りが登場して各場面を彩るので、読みながら本当に香りが感じられるような作品です。
作品においしそうな食べ物が登場すると頭にその映像が思い浮かぶことがありますが、『透明な夜の香り』はその香りバージョンと言えます。
物語としては、まず主人公の一香が、朔に雇われるところから始まります。
一香は、わけあって書店員を辞め、半年ほど引きこもりをしていたのですが、貯金が尽きそうになって、やむなく重い腰を上げてアルバイトに応募するのです。
一方朔は、香りに敏感すぎる体質ゆえに、俗世に溢れる数多の匂いから逃げるように、ハーブに囲まれた洋館でひっそりと暮らしています。
どのくらい敏感かというと、人の行った場所や病気、感情すら判別できるくらいです。
人から放たれるこういった匂いを「うるさく」感じてしまう朔は、究極の人間嫌いと言えるかもしれません。
でも一香は、「ある事情」から自宅に引きこもって感情を抑えていたため匂いが「うるさく」なく、そのため朔は好ましく思って採用を決めたわけです。
ところがその後、一香は朔の家事や仕事のサポートをする過程で徐々に癒されていき、それに伴って停滞していた心が動き始めます。
すると当然香りも変化してくるわけで、戸惑った朔は、一香の過去の傷を無理に呼び起こそうとします。
彼女が心の奥底に封印していた辛い記憶を、当時の香りをイメージして再現することで引きずり出そうというのです。
朔はなぜそのような意地悪めいたことをしたのか、そして再び傷と直面することになった一香は、何を思い何を選択するのか、ここはぜひご自身で読んでみてください。
その先には、心を揺さぶるような美しいラストシーンが待っています。
香りのオーダーメイドが面白い
『透明な夜の香り』は、上記のように心と香りの変化をテーマとした物語です。
とてもかぐわしくて味わい深く、心に沁み入ってくるのですが、それ以外にもうひとつ、「すごく面白い!」と思える要素があります。
調香師・朔が仕事で作り出す様々な香りです。
朔は依頼主の要望に応じて香りをオーダーメイドしているのですが、それが実に多種多様で興味深いのです。
たとえば、病気で絶望している息子のための「生きる力を呼びさます香り」です。
「病は気から」という言い回しがありますが、香りで気持ちが上向きになれば、きっと体にも良い影響が出ますよね。
実際の医療現場でもアロマセラピーが行われているくらい、香りには癒す力があるようです。
それを天才調香師・朔が作るのですから、効果がすごく高そうで、どんな香りなのか興味がわきます!
他にも、「亡くなった夫の香り」や、相手を傷つけないようにするための「血の香り」などなど、朔は様々な香りのオーダーメイドを引き受けます。
読みながら、それぞれの香りのイメージが頭に自然に浮かぶので、それがとても楽しいです。
また依頼のひとつひとつに「なぜその香りを求めるようになったのか」というドラマがあるので、連作短編集的に楽しめるところも本書の魅力だと思います。
さらに、一香はよく朔の指示で料理をするのですが、これまたすごく香りを感じさせるのですよ。
朔の庭で採れたハーブやフルーツを使って作るサラダやスープは、どれも色鮮やかで香り豊かで、想像するだけで心がフワッと軽く爽やかになってきます。
ぜひ読みながら、想像を働かせてみてくださいね。
きっとより楽しく読めるようになると思います。
静かに本を読みたい夜長におすすめ
様々な香りで彩られ、まるで行間からほんのり香ってくるかのような作品でした。
文字の世界なのに、ここまで香りが感じられる作品は、他に類を見ないのではないでしょうか。
もちろん、良い香りだけでなく朔が「うるさく」感じるような雑多な香りも色々と登場します。
嘘の香りなどはその最たるものですが、これはこれで興味深く、「どんな香りだろう?」と想像力を掻き立てられます。
きっと嫌~な感じの香りでしょうし、世の中には朔のようにそれを嗅ぎ分ける人もいるかもしれません。
また、読んでいてとても静かな気持ちになるところも、『透明な夜の香り』の特徴です。
ワクワクする展開やハラハラする展開がありつつも、どのシーンにも秘めやかでしっとりとした雰囲気が漂っていて、読み手は自然に心がスーッと鎮まってくるのです。
最後の1ページを読み終え、本をそっと閉じた時、あまりにも涼やかになった自分の心にビックリするくらい。
静かに読書をしたい夜長には特にピッタリの作品だと思うので、ぜひお手に取ってみてください。
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