大通りに面したオフィスビルの自動ドアが開き、女が現れた。
女はガードレールの切れ間で手を挙げた。タクシーが止まり、女を乗せて走り出す。
間違いない。今日で確実に女を仕留められる。俺は物陰から離れて目的地へ急ぐ。
今回の依頼主は冴えない中年の男だった。いや、正確には三十代かもしれない。
依頼主のプロフィールはさほど重要ではないから、男がいくつだろうがどうでもいいのだが。
「女を葬ってほしい。金はいくらでも払う」
男の声には鬼気迫るものがあった。
「俺の話をどこで聞いたのか知らないが、個人の案件は基本的に受け付けていない」
ろくでもない人生だが、1つだけ幸運な事がある。俺は暗殺の才能に恵まれた。
それが金になると気付いてからは、政治家や大企業の経営者を数多く手にかけてきた。
「知っている。金はあるんだ。一億でどうだ」
男は手にしていたアタッシュケースを叩いた。
「やはり分かっていない。金じゃないんだよ。俺は裏の世界にしかないモノを金代わりに受け取っている」
これまでの依頼主たちは、国内では流通していない銃や、細菌兵器の特効薬などを譲ってくれる。
金を貰うのは契約時の手付金だけだ。
「それなら、女の部屋にある物を好きなだけ持って行ってくれ。全て俺がプレゼントした物だ。中には絵画なんかの美術品もある」
男はとある芸術家の名を口にした。
「ふむ、悪くないな。俺の好きな芸術家だ」
毒々しい世界を描くその絵を眺めていると、闘争心が湧いてくる。
「はっはっは、中々マニアックだな。では交渉成立という事でいいか?」
男は楽しそうに言った。
「ああ。ターゲットについて教えてくれ」
俺は男からターゲットの女について聞き出した。
女は仕事が終わると、大抵は繁華街へ繰り出すが、月に数回はタクシーで真っ直ぐ家に帰るとの事だった。
女の住むマンションに先回りし、女がやってくるのを待つ。
道路が混みあうこの時間は鉄道で移動したほうが早い。
数十分後、女がマンションに近付いてきた。
マンションの正面までタクシーで来るような事はしないらしい。
防犯上正しい判断だ。残念ながら今日は間違いだが。
女が出入り口のオートロックを解除して中へ入っていく。
ドアが閉まる前に俺は体を滑り込ませ女の後に続く。
女はエレベーターを待っていた。俺は女の後ろに並んだ。
一階に到着したエレベーターに女と二人で乗り込んだ。
エレベーターのドアが再び開いた。女が先に出る。
その足取りはおぼつかない。なぜなら、俺が背中にナイフを突きつけているからだ。
そのまま歩き、女の部屋に向かった。女の部屋に後から入った俺は、後ろ手てドアの鍵を閉めた。
「突然すまないな。君に恨みは無いが、消えてもらうよ」
俺は努めて明るく言った。
「私、殺されるんですか」
女は引きつった顔で俺を見ている。
「そうだ。ある人から頼まれたんでな」
「誰なんですか」
女は尋ねてきた。
「知ってどうする。意味のない事だ」
俺は一歩近づいた。女が後ずさる。廊下から居間へと移動した。奇抜な絵が飾られている。
「あまり絵には近づかないでもらいたい。汚したくはないのでね」
俺は言った。血飛沫が飛んだら困る。いや、それも悪くないか。
「絵がどうかしたの?」
女は首を傾げる。
「好きな芸術家の絵なんだよ。なるべく綺麗な状態で持ち帰りたい」
俺の言葉に女は目を見開いた。
「もしかして、彼から頼まれたの……」
女は呟いた。
「さあ、どうだろうな」
俺はとぼけた。すると女の表情に変化が生まれた。
「なるほどね、よく分かったわ」
そう言うと女は笑い出した。甲高い笑い声に一瞬怯んだ。
「死を前にして精神がもたなくなったかな。おしゃべりはこのへんにしよう」
俺は空いているほうの手をポケットに入れ、紐を取り出した。現場はなるべく汚したくない。
「一つだけアドバイス。私を殺したら後悔するわよ」
女は不敵に笑いこちらに向かってきた。俺は経験した事の無い恐怖を感じた。
「覚えておくよ」
さっさと終わらせよう。俺は動いた。
おかしい。
依頼主の男と連絡が取れない。仕事の報告が出来ないまま数日が経過した。
女の家から絵を頂戴したから仕事の報酬は既に手にしている。
しかし、完了報告をしていないのは落ち着かなかった。
昔ながらのラーメン屋で早めの昼飯を食べていると、店の隅に設置されているテレビのニュースに釘付けとなった。
『芸術家の男死亡』
『自殺か』
『殺人を仄めかす』
刺激的なテロップと共に映し出されている写真には、依頼主の男の顔があった。
アナウンサーが話し続けている。
「遺書には、『世界で一番大切な人を死なせた。私も死ぬ。二人はあの世で永遠の芸術となる。』と書かれており……」
俺はようやく、死に際に女が言った事の意味を理解した。
もう、あの芸術家の描く絵は生まれない。
(了)
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