病院の建物を出たティー氏が振り返ると、娘がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
病室の窓から健気に手を振る娘の姿に、ティー氏は胸が締め付けられる思いだった。
彼はもう一度、娘に笑顔を返してから、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
しばらくの間、先ほど病室でした娘とのたわいもない会話を思い返しながら歩いていたティー氏は、自宅が見える頃になると深くため息をついた。
娘を見舞った帰りはいつもこうだ。さっきまでのひとときが楽しければ楽しいほどに暗澹たる気分にさせられる。
彼の娘は重い病に冒されていた。このままだと10歳まで生きられないと医者には言われている。
それまであと2年、わずか700日ほどしかない。
それなのに父親である自分には何もできない。
妻は娘を産んですぐ事故で亡くなった。
娘だけがたった一人の家族であり、彼の生きがいなのだ。
もしも娘まで失うなんてことになったら、そんな縁起でもないことを考え、慌ててその思いを打ち消す。
娘の難病を治すには手術を受けるしかない。しかし、それには莫大な費用がかかるのだ。
彼にはその手術費用を捻出するだけの余裕がなかった。
何とかしなくては、とティー氏はこれまで何度も考えたことをまた繰り返す。
もう時間はないのだ、あの子のたった一人の父親である自分が何とかしなくては。
いや、娘のためならどんなことでもする覚悟はある。
ただもうどうしようもなかった。
借りられるところからはすべて借りていたし、その金は娘の入院費用にまるごと消えてしまっていた。
いよいよ万策尽きた彼は、ふと目についた銀行を見て、残された手段はもうこれしかないと思った。
どうせ銀行には有り余るほどの金が眠っているのだ。
少しぐらいいただいてもどうってことはないだろう。娘の命を救うためなら、神だって見逃してくれるはずだ。
無理やりにも自分をそう納得させたティー氏は、こうして銀行強盗の準備を始めたのだった。
それから数日かけて、ティー氏は必要なものをあちらこちらの店で買い揃えていった。
銃にナイフ、丈夫な鞄、そして顔を覆うためのマスク。
娘のためにも絶対捕まるわけにはいかないのだから、これらの品を買う時にも顔を覚えられることのないよう慎重を期した。
そして決行の日、彼は閉店間際の一番客が少ないと思われる時間帯を狙って、銀行に入った。
「動くな!手を上げろ」
ティー氏は銃を構えたまま大きく声を張り上げた。
数人いた客たちがとっさに出口に向かおうとするのが目に入る。慌てて天井に向かって銃を放つ。
パンッ!
途端に足が止まる客たちに「動くな」ともう一度念を押した彼は、そのまま女子行員のいる窓口へと向かった。
女が青ざめた顔で彼を見上げている。
彼のほうも内心怯えていたのだが、その気持ちを押し殺し、できるだけ低く静かな声で言う。
「この鞄にあるだけの金をつめろ」
ティー氏は用意してきた鞄を、無雑作にカウンターへ置いた。固まってしまっている目の前の女子行員に男性行員が駆け寄ってくる。
鞄に金が詰められていくのを見ながら彼は、もう一度同じセリフを繰り返した。
とその時、背後で何やら動く気配がした。
とっさに振り返った彼の視線の先では、客たちが一箇所に固まり身を寄せあっていた。
みんな怯えた顔で彼を見ている。
「動いたら撃つぞ」
客たちにそう言ってから、ティー氏がもう一度窓口に向き直ろうとしたその時、一人の男性客が手に持っていた雑誌を落とした。
ティー氏は反射的にその男性客へと銃口を向ける。
パンッと乾いた音がしたかと思うと、次の瞬間その男性客は床へ倒れた。
彼に撃つつもりはなかったのだが、反射的に引き金を引いてしまっていた。
娘の手術費用に足りるだけの金を盗ったら、誰も傷つけずに銀行から立ち去るつもりでいたにもかかわらず撃ってしまったのだ。
もしこれで男が死んでいたら、娘の命を助けるために別の命を奪ってしまったことになる。
それでもティー氏は鞄に充分な札束が詰まっているのを確認してから銀行を出た。
そしてそのまま隠してあった車に乗り込むと、動揺する気持ちを抑えつつ、車を急発進させた。
運転をしつつ警察が追ってこないかと何度も何度も後ろを確認し、ティー氏は長い時間をかけてやっとのことで家へとたどり着いた。
ところがその翌日のニュースを見て彼は愕然とする。
自分が起こした銀行強盗についてのニュースが流れていたのだが、やはり彼が撃った客は亡くなっていたからだ。
いや、それはいい。元々娘のためなら何だってする覚悟だったのだから。娘のためには他人の命などクソくらえだ。
しかしティー氏が殺したのは、絶対に何があっても殺してはいけない人物だったのだ。
なぜならその男は世界的な名医。
娘の難病を治療できる世界で唯一の人物だったのだから。
(了)
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星夜 行(ほしや こう)というペンネームで書いてます。
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