エヌ氏はやっと見つけた仕事を、またしてもクビになってしまった。
もうこれで何度目かも分からない。
なけなしのお金で買ったやけ酒をあおりながら、フーッと深いため息をついた。
ちくしょう、なんで俺ばっかりがこんな目に遭わなけりゃいけないんだ。
暗く狭い六畳一間のおんぼろアパートで、エヌ氏はこれまでの人生を振り返った。
思えば彼の人生はずっとついてなかった。
少年時代には同級生たちにいじめられ、中学の時には両親が離婚して、彼は大酒飲みの父親に引き取られた。
やっと大人になって自立できると思ったら、最初の会社は彼が入社した直後に倒産した。
次の会社では上司に不正を押し付けられ、クビになった。
そのまた次にようやく見つけた工場では、過酷な労働に体を壊してしまった。
会社を移るたびに給料は安くなり、仕事はきつくなっていった。
現在の彼は家族もおらず心許せる友達もいない、エヌ氏の人生はろくでもないものだった。
ただ、そんなエヌ氏にもたった一つ、唯一の希望があった。
このろくでもない人生を、その希望のためだけに生きているとさえ言えた。
それが幼い頃に天使から貰った『死ぬ間際に飲むと幸せになれる薬』だった。
天使と出会ったのは、幼稚園に入学する以前のことだった。幼かった彼は、その時のことをはっきりとは覚えているわけではない。
ただ気がついたら薬の入った小さな小瓶を握っていたのだ。
不思議なことにそれが『死ぬ間際に飲むと幸せになれる薬』だというのは分かった。
それからというものエヌ氏は、天使に貰った小瓶をずっと大切にしてきた。
苦しいだけの人生を乗り越えられたのは、この小瓶のおかげだった。
どれほど運に見放されようと天使がついている、そう思えば、多少は気持ちが楽になった。
それに大抵の人が苦しんで怖い思いをして死んでいく中、彼だけは幸せになれるのだ。
幸せになるとはどんなものなんだろう、苦しまずに死ねるのかな、天国に行けるのかも、それとも大金持ちに生まれ変われるのかもしれないぞと。
そんなことをつらつら考えている時には、彼の気持ちはほんの少しばかり満たされた。
言ってみればその小瓶だけが彼の心の拠り所だったのである。
無職になってしまった彼は毎日、朝から晩まで仕事を探しに出かけた。早く仕事を見つけないと生活ができなくなると、気ばかりが焦る。
ところがそんな彼を、またしても不幸が襲った。面接からの帰り道、事故に巻き込まれたのだ。
幸いにも一命は取り留めたが、その代わり、体が思うように動かなくなってしまったのである。
これにはさすがの彼も自分の不運を呪った。
彼の入院生活は半年にも渡った。その間、一人も見舞いに来る者はいなかった。
そもそもエヌ氏には入院していることを伝えるような親族も友人もいないので、それも当然なのだが。
退院の日、看護師に見送られて病院を後にした彼は、やっとの思いでアパートに戻って来た。
体が思うように動かず、下半身については全く感覚がない。
半年間、放置してほこり臭くなった部屋の中で、家族もいないし仕事もない、彼はとうとう薬を飲む日が来たのだと思った。
これまで不幸続きの人生だったせいか、全く恐怖心はなかった。
それよりやっと幸せになれるんだと思うと、彼は嬉しくなった。
『死ぬ間際に飲むと幸せになれる薬』はいったいどんな味がするんだろう、きっとこれまで食べたどんな料理よりもどんなお酒よりもおいしいはずだと思うと胸が躍った。
小瓶に入った薬を手に取って、もう一度人生を振り返ってみたが、特に何の感慨も湧かない。本当につまらない人生だったなぁとエヌ氏は思う。
そしてエヌ氏は一気に薬を飲み干した。ぎゅっと目を閉じる。が、何も起こらなかった。
彼はゆっくりと目を開けて、自分の体を確認した。
あれ?死んでないぞ?どうなってるんだ?
彼の頭はハテナでいっぱいになる。天使の言ったことは嘘だったのか?
その時だった、どこからともなく可愛らしい声が響いてきたのだ。
『ジャジャーン!おめでとうございまーす!あなたは死なない体になりました』
その声は彼が幼い頃に聞いたことのある、あの天使の声だった。
死なない体だって?それって不老不死ってことか?
慌てる彼の声に重なるように、天使の声が響いてくる。
『そうでーす!良かったですねぇ。どんなムチャをしても死なないんですよぅ』
こんな不自由な体のままで不老不死だと?!
や、やめてくれ!エヌ氏は叫ぶ。
『人間が最も恐れる死を克服できたんですよ。これ以上の幸せはありませんよね』
そ、そんな!とエヌ氏は頭を抱える。
『それでは幸せな人生を!』
その言葉を最後に、可愛らしい天使の声は聞こえなくなった。
この日、エヌ氏の希望は絶望に変わった。
どうやらこれからも彼のろくでもない人生は続くようだ。
(了)
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星夜 行(ほしや こう)というペンネームで書いてます。
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