主人公の『わたし』は郊外のカントリークラブに勤めるテニスコーチであり、妻のミリセントはやり手の不動産仲介業者です。
ふたりは十代の息子と娘を育てています。
子供を私立学校へ入れやりくりに苦労しながらも、幸せに暮らしているごく平凡な四人家族でした。
しかし、そんな夫婦がある日、人を殺してしまいます。
ふたりはこっそり死体を始末して、忌まわしい出来事を闇に葬り去ろうとしました。
──しかし、罪を犯したときのときめきが心に残り、もう一度殺人をしてみようと夫婦一緒に計画を練り始めてしまいます。
これは、明るいホームドラマと陰惨な殺人劇が合体したドメスティック・スリラー……。
サマンサ ダウニング 『殺人記念日』
対岸の火事より、身を焼き尽くす火事
エドガー賞、英国推理作家協会賞、国際スリラー作家協会賞など栄誉ある賞にノミネートされ、映像化の話が持ち上がっている本作。
なにが読者を魅了するのか。
あなたは小説を読むとき、何を期待して読みますか。
さらに踏みこむならば、サスペンスに何を期待して読みますか。
小説は自分の人生と距離を置くためのものと考えます。それは他者の人生であり、非現実のものかもしれません。
そしてサスペンスは語源の一説とも言われるズボンのサスペンダーのように、非現実の中に「心を宙吊りにされる」という感覚を楽しみたいから、読まれるのではないでしょうか。
本作『殺人記念日』のページ数でいうと569ページもの物語です。文量は文庫本の中でも多い分量に入ることでしょう。
では、それを読むに価値のある作品かどうか。
結論として価値があります。
本書『殺人記念日』の肝は、殺人に対しての捉え方です。
みなさんは『記念日』という言葉にどんな印象を持たれますか。憲法記念日や結婚記念日、はたまた誕生日など『祝う』というプラスなニュアンスがもたれます。
では本書はどうか。
例外には漏れません。夫婦は殺人の記念日を微笑みあって祝福します。
そこに本書のおぞましさがあります。
家族円満の秘訣は共通の話題を持つことにあると言われますが、主人公『わたし』と妻のミリセントは殺人を共通の話題とするのです。
家庭で起こる些細なストレスを発散させるかのように『デートの夜が必要だ』と夫婦間で暗号を送り殺人計画を話し合う。
そしてその内緒の行為はスリルを伴い、身を焦がすような快楽を与え、ふたりを更なる凶行へと走らせていく。
その様が身近なように思えて、そして脊髄を掴まれるように恐ろしいのです。
兼業作家が持つ抜群の共感性
本作は上記の通り、日常に潜むおぞましさを持ち味にしています。
だからこそ、読者を惹きこむには読者の登場人物に対する共感が重要となっていきます。
著者のサマンサ・ダウニングはアメリカの出身です。本作の舞台はフロリダ州のヒドゥン・オークスになります。
そこでの家庭の営みが描かれていて、そのリアルさが魅力のひとつになるのです。
では。日本に住んでいる私たちにとって、その共感はなしえるのか。
そこで著者の腕が光ります。国の垣根を超えた共感性を見出すのです。たとえば作中にこんな文章があります。
「テニスのレッスンを受けるのとテニスを教えるのは別物だと私は言いたくなる。仕事で野外スポーツを満喫するなど考えたこともない。──(中略)──本当にテニスをしたい人間ましてや練習をしたい人間を数えるのに一本の指も必要ない。トリスタも大半の人間のひとりだ。テニスが大好きなのではなく見栄えが良いのが大好きなだけだ。」(作中引用)
これはテニスコーチである主人公の『わたし』が、テニスレッスンを受けているトリスタという女性に対して感じたことを伝える一文です。
クラブに所属しているだけで満足する人って日本にもいっぱいいますよね。日本の会員制スポーツクラブがビジネスモデルとして成立するのもこのような心理が働くからだと言われています。
人は高貴な集団に籍を置こうとする。そうやって安心しようとする。
著者のサマンサ・ダウニングは現状、兼業作家として活動しているそうです。
専業作家とは違う、日常に散らばった事柄を共感性の高い物語として昇華できる武器なのではないでしょうか。
殺人夫婦の企みは成功するのか
本書の主人公『わたし』と妻のミリセントは殺人を隠蔽するために『殺人記念日』を定めます。それはとある有名な殺人鬼に罪を被せるためのものでした。
その思惑は、最初は成功したように思われました。
しかし、完璧だったはずの犯行は少しずつ危機に瀕していきます。
読者はその闘争劇に息を呑みながらページを追うこととなります。読み進める度に、さりげなく撒かれた伏線を軽やかに回収していく筆致にも驚くことでしょう。
『わたし』と妻のミリセントの殺人劇はどのようなラストを飾るのか。
最後に夫婦は笑いあえるのか。
そして、それが許されてしまうのか。
編集者を一読で魅了させて数々の賞にノミネートされた、サマンサ・ダウニングの傑作。
ぜひご一読ください。
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