25歳の坂口孝文は、学生時代に同級生の茅森良子を裏切ったことを悔やんでいました。
当時の過ちを謝り、罪を償いたいと考えていた坂口は、思い切って茅森に手紙を出します。
彼が悔いていたのは、高校2年生の時の出来事。
14歳の時、中高一貫の共学校である制道院学園の中等部2年だった坂口は、転入してきた茅森と出会います。
茅森の夢は、総理大臣になること。
その大きな夢をかなえるために、茅森はどんどん行動し、坂口はその姿に惹かれていきます。
学校行事の変革、生徒会長への就任など、着実に学内でのキャリアを積み重ねる茅森。
その裏には、坂口の協力もありました。
17歳になり、学園祭を控えていた二人は、映画監督で茅森の養父でもある清寺時生の未発表作品を劇として発表することを計画していました。
しかし、この計画を進めていく過程で、坂口は茅森を裏切ることとなってしまいます。
25歳の坂口は茅森に会って謝ることはできるのか…そして裏切りとはいったい何なのか。
倫理や正義についても考えさせられる、青春小説です。
倫理とは?常識的に考えているはずの自分に潜む偏見に気づく
この物語で非常に重要な役割を持つカギの一つが、目の色。
作中には黒い目をした人間と、緑色の目をした人間が現れます。
黒い目の人々が緑色の目の人々に奇襲攻撃を仕掛け、制圧したという歴史的出来事から、緑色の目の人々に対して見えない差別が存在する世界。
黒い目の坂口に対して、茅森は緑色の目をしています。
マイノリティの意見にも耳を傾けながら、真の人類の平等を目指す茅森。
緑色の同級生の意見に涙することもありますが、坂口が茅森を支えていきます。
自分が思う「正しい世界」に対して非常に素直で、ともすれば意地っ張りにもなる登場人物たち。
「倫理」という言葉への考え方も、黒い目の人々と緑色の目の人々で大きく異なっています。
それぞれの思う倫理とは何なのか、一体正義とは何なのか。
坂口や茅森をはじめ、登場人物たちの思いに触れていくと、はっと気づかされることがたくさんあります。
読者の私たちは、知らず知らずのうちに自分の中に根付いている偏見に気づかされることになるでしょう。
清寺時生の映画が問うもの
もう一つ、この物語で重要なカギとなるのが、茅森の養父だった清寺時生の映画作品です。
坂口と茅森が出会った時点ではすでに故人となっている清寺ですが、茅森の記憶の中に彼との時間が色濃く詰まっています。
清寺時生の映画作品は基本的にリアリズムに徹していて、悲惨な出来事も起こりますが、最後には希望が見える作品づくりで多くのファンがいます。
制道院学園の司書教諭である中川先生もその一人。
彼女もまた、坂口や茅森にとって重要な存在となります。
茅森が小学生の時に、出入りを禁じられていた清寺の書斎に忍び込んで読んだのが、未発表作品の「イルカの唄」の脚本です。
主演は故人で女優だった茅森の母が演じる予定でしたが、公開されることなく数年の歳月が流れていました。
茅森は「イルカの唄」をすべて読んではいないのですが、記憶にあったこの作品に非常にこだわり、何とかこの作品を舞台にしたいと奔走します。
現在は茅森が読んだ脚本は現在どこにあるのかわからない状態ですが、この「イルカの唄」の秘密を先に知るのは坂口となります。
「イルカの唄」をめぐる登場人物たちの駆け引きを見ていると、清寺時生の映画は現代の世界にどのような問いを投げかけているのか、読者も考えずにはいられません。
価値観が異なる人とどう向き合うかを考えさせられる小説
2020年に河野裕氏の最新作として連載され、単行本化した本作。
物語で常に問われるのは、読者の中に無意識に根付いている差別と、偏見です。
自分の考えがマジョリティだと思い込んで日々を過ごしていても、当然価値観が違う人とはたくさん出会います。
自分がマジョリティで、これが正しいと思っている事実には、実は捉え方を変えてみると矛盾がたくさんあります。
価値観が違う人と出会って、議論を深めていくと自然と表面化する問題ではないでしょうか。
小説の登場人物たちを見ていくと、自分が正しいと思うことに対して素直だけれど、考え方が違う人々を頭ごなしに否定せずに、じっくりと議論しています。
とても中学生や高校生とは思えない論理的な議論や目的達成のための駆け引きが、あらゆる場面で展開されています。
恋愛が禁止された中高一貫の共学校で惹かれあう坂口と茅森を主軸にしながら、二人の視点でそれぞれの価値観が描かれる本作。
違いを尊重しつつも、自分が思う正しさを愚直に求める姿は、生きることに対して貪欲な10代の等身大の姿を映しています。
青春学園ものは普段読まないという方も、読む価値がある作品だと思います。
あまり恋愛を前面に出しているわけでもなく、問うているのは非常にシリアスな問題です。
皆さんにとっての倫理や、正しいと思うものは何でしょうか。
この小説をきっかけに、ご自身を見つめなおしてみるのもよさそうですね。
様々なことを考えさせられる良作です。
是非この機会にご一読ください。
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