イラクの戦場から英国へと帰還を果たしたものの、戦中の激しい爆発によって左目もろとも自身の顔の左部分と二人の部下、そして2か月分の記憶を失ってしまった帰還兵・アクランド中尉。
昏睡から目覚めた彼は、暴力的で女性嫌悪を示す性格となってしまった上、暴力事件を起こして警察に拘束されてしまう。
同じころ、ロンドンでは軍歴のある一人暮らしの男性ばかりが標的の殴殺事件が多発していた。
アクランド中尉はその一連の殴殺事件の容疑者とされてしまうが、果たして彼は事件の犯人なのだろうか?
真犯人の正体とは?
ホームレスや薬の中毒患者・男娼たちがひしめくロンドン社会の闇を描き出すと同時に、スリラー小説として申し分のないスリルある展開を現実のものとした本作品。
「心理描写」を得意とする英国ミステリーの正統派と言える作品です。
『カメレオンの影』
立体的な性格描写は驚きのひとこと
本来、ミステリー小説というものに登場するキャラクターは平面的な性格描写をされていることが少なくありません。
性格のある一面だけを見せて、ストーリーの駒として・謎解きの道具の一つとしてのキャラ付けをすることが多いと言えます。
その点、本書の性格描写の特徴は一人の人物をとにかく“立体的”に描き切っているというところにあります。
人間は元来さまざまな性格や考え方、物の見方を持っており、その時々によって表面に現れる性格や思考が違っているだけとも言えます。
つまり、現実世界の人間と同様に登場人物の性格描写を行ったのが本書なのです。
主人公のアクランド中尉は、周囲の人間によって「場面場面で性格が変化するカメレオンのような人物だ」と評されます。
イラク戦争の後遺症によって変わってしまったアクランド中尉を指して言っている言葉ではありますが、そもそも人間とはその時々で性格も考え方もほんの少しずつ変わっているもの。
実は登場人物皆が、そして現実世界の人間も含めたすべての人間が、カメレオン的な性格を備えていると言えるのです。
上記のように徹底して現実に即した性格描写を行っている点が、本書の優れたポイントの一つと言えます。
アクランド中尉だけでなく、彼をサポートするキャラの面々の性格もまた多彩。
特にレズビアンであるドクター・ジャクソンは、負傷後のアクランドが病的に嫌う女性であり、中流階級出身のアクランドに対し貧困層の出身。
互いに対立しあう間柄でそれぞれが描写され、さらに人物に奥行きを持たせています。
アクランドの性格、連続殺人事件という二つの謎を追う展開
本書の謎は主に二つ、アクランド中尉の性格の真相と連続殺人事件の真相です。
二つの謎を同時に追うという構造と証拠の提示の仕方が実に秀逸で、アクランド中尉の謎を追う展開かと思いきやその途中で連続殺人事件についての証拠が突然現れるなど、なかなか息つく暇がありません。
アクランド中尉は連続殺人事件の犯人なのか?真犯人の存在は?
本当に少しずつ明らかになる真相、小出しにされる情報など、読者を飽きさせない努力は惜しみません。
登場人物たちに翻弄されながら読み進める
作者の“技”により、その時々や場面ごとで全く異なる印象を読者に与える登場人物たち。
まるで現実に存在する人間のような立体的な性格・印象の変化に、読者は振り回されながら小説を読み進めることになります。
登場人物の性格の移り変わりすらもトリックの一部として扱う作者に、読者は太刀打ちすることは出来ません。
すっかりこの作者の人物描写にハマってしまうこと請け合いです。
アクランド中尉を始めとした個性的な登場人物たちの魅力を存分に味わいながら読み進めてみてください。
重いテーマとそれを読ませる力量が共存
まず主人公であるアクランド中尉の境遇からして重いテーマを含んでいます。
イラクからの帰還兵、部下の死や失明・損傷やPTSDといった後戻りのできない戦争後遺症、性格の豹変。
ドクター・ジャクソンはレズビアンであり、女性のパートナーと同居しています。
これら重めのテーマの連続にも関わらず、読者のページをめくる手は止まりません。
それはひとえに物語の内容が面白く、続きが気になるからです。
読者に対して物語を“読ませる”ほどの文章力が本書の作者には備わっていると言えます。
これほどの困難を背負ったアクランド中尉がこの先どのような人生の結末を迎えるのか。
一人暮らしの男性のみを狙った連続殺人事件がどのように解決されるのか。
人格描写の領域において、文句なしに現代ミステリー界随一の力を持つことを示したミネット・ウォルターズの傑作を、ぜひご一読ください。
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