犯罪認知件数が全国ワースト5というV県警察に、新人警察官の甲斐が赴任してきた。
甲斐は26歳と若いが、キャリア組ということで、いきなり管理官に抜擢。
高齢夫婦の焼死体が発見された事件で、陣頭指揮を執ることになった。
それをやっかんだノンキャリア組から嫌がらせを受けながらも、甲斐は毅然と捜査を進め、徐々に頭角を現していく。
ところが管内では、事件が止まることなく起こり続ける。
これ見よがしに死体が遺棄されていたり、捜査側の人間が不審死を遂げたりと、どうもキナ臭い。
やがて甲斐は、これら一連の事件の裏側に巨悪が潜んでいることに気が付き――。
キャリア警察官の腕前に惚れ惚れ
『祈りも涙も忘れていた』は、若きキャリア警察官・甲斐が悪に対峙するハードボイルド長編小説です。
事件がいくつも連続して起こり、それらを追っていくと、根っこに政財界を揺るがすほどの巨大な悪が存在していた、という流れです。
人がどんどん殺されていき、その都度少しずつ見えてくる黒幕の存在に、ハラハラドキドキが止まらない物語となっています。
見どころは、まずは甲斐の颯爽としたカッコよさ!
甲斐は弱冠26歳の新人でありながら、キャリアということで、いきなり捜査の陣頭指揮を任されます。
警察におけるキャリアとは、国家公務員総合職試験を合格した人のことです。
研修後は短期間の見習いを経てすぐに警部となり、4年目には警視にまで一足飛びに昇進するという、いわばスーパーエリート。
ほとんどが東大卒だそうで、実際に甲斐もかなり優秀な人物として描かれています。
実地経験を積むためにV県警に赴任したものの、東京に戻れば官僚となることが約束されています。
だからこそペーペーの新人なのに、赴任してすぐに陣頭指揮を任されたわけですね。
でもそれを面白く思わない連中もいて。
年配のノンキャリアたちを中心に、甲斐に嫌味を言ったり捜査の足を引っ張ったりと、チンケな嫌がらせをしてきます。
でも甲斐は、お手並み拝見と言わんばかりのこの環境で、見事に能力を発揮します。
状況を冷静に的確に分析し、事件の中核を見定めて鋭く切り込んでいく様は、爽快の一言!
やがて誰もが甲斐の実力を認めざるを得なくなっていきます。
読み手としても、「これがキャリアの凄さか!」と、カッコよさに惚れ惚れしながら読むことになります、……中盤までは。
絶望を振り切って進む男の信念
中盤を過ぎると物語は一気に暗転し、巨悪の存在が見え隠れし、甲斐が翻弄され始めます。
何かキナ臭さが広がってきたかと思うと、警察内部にまでそれが浸透していることが判明します。
正義と悪とが交錯し、さすがの甲斐も誰が敵か味方だか疑心暗鬼に。
甲斐は結局一人で戦わざるを得なくなり、なんとか奮闘するものの、そのために大切な人々を多く失ってしまいます。
直接的には甲斐のせいではないのですが、それでも甲斐は自分を責め、絶望の淵へ。
前半であれだけクールで颯爽としていた甲斐だからこそ、苦悶する姿はあまりに悲愴で、読者の胸を抉ります。
でもやがて立ち上がり、絶望を振り切って真の黒幕へと挑もうとする甲斐に、読者の胸はまた大きく震えることになります。
傷を負っても打ちひしがれても、あがきながら前に進もうとする男の姿は、めちゃめちゃカッコいい!
前半のエリートっぷりとはまた違う魅力を見せてもらえます。
このシーンは、タイトルの『祈りも涙も忘れていた』の意味を考えながら読むと、感動がひとしおです。
男が本気で突き進んでいる時には、祈ることや涙を流すことすら忘れてしまうのでしょう。
それほどの極限の状態であり、むしろ読み手が甲斐のために祈りたくなりますし、涙も自然に滲んできます。
そしてラストがまた、かなり涙を誘います。
20年後の甲斐が当時の事件に思いを馳せるのですが、読者の脳裏にもそれまでの劇的な展開が色鮮やかに甦ってきて、まるで映画を見ているよう。
しみじみと感傷に浸りながらの読了となり、「ここまで読んで良かった」と満足感いっぱいで本を閉じることができます。
ハードボイルド好きにはたまらない世界観
作者の伊兼 源太郎さんは、「正義」を主軸としたヒューマンドラマを描くことで定評のある作家さんです。
本書『祈りも涙も忘れていた』もやはりその系統の作品であり、主人公・甲斐が正義と罪の在り方に苦悩しながら信念を貫く姿は、とてもドラマチックで感動的。
また本書はハードボイルド小説でもあり、クールだけど、どこか陰りがあって、それでいてタフな甲斐は、ハードボイルドの主人公として典型的です。
しかも甲斐は結構キザで、皮肉っぽいというか、カッコつけた言い回しをよくします。
火事現場に集まる野次馬を「炎に見惚れているようだ」と表現したり、本を読む理由を「本に呼ばれたからだ」と言ったり。
こういう持って回った言い方が、どこか古き良きアメリカンハードボイルドを彷彿とさせるのですよ。
そしてもちろん、ハードボイルドでは絶対に外せない大事な要素である「美女」も登場!
成海という名のピュアで聡明な女性で、物語に深く関わる重い過去を背負っています。
また舞台も、神戸をモデルとしたであろう夜景の美しい町であり、ミステリアスなバーが出てくるところもハードボイルドっぽいです。
このように『祈りも涙も忘れていた』は、随所からハードボイルドな香りを漂わせている作品です。
この世界観が好きな方であれば、どっぷり浸かりながら、より楽しんで読めるのではないかと思います。
もちろん作者である伊兼 源太郎さんのファンの方、警察小説やミステリーが好きな方も、きっと熱中できるであろう傑作ですので、ぜひ読んでいただきたいです。