新宿歌舞伎町でネイルサロンを経営している幸。
しかしそれは表向きで、真の稼業は逃がし屋。
現実に絶望し、過去を消して逃げたがっている人々に、偽の身分証明書を作っているのだ。
ある日、ヤクザに追われる二人の少女・アンナとメイが、幸に逃亡を依頼してきた。
しかしその数日後、メイがビルから落ちて死んでしまう。
追手に殺されたのか、それとも……。
幸は、残されたアンナだけでも逃がしてやるために、逃がし屋としてのもうひとつの手段をとることにした。
それは、雨の降る新月の夜に、ここではない別の場所「異界」への門を開くことだった―。
苦しみの中での、究極の選択
『擬傷の鳥はつかまらない』は、ファンタジー要素のあるミステリです。
序盤は、ハードボイルドなテイストで始まります。
逃がし屋として身分証明書の偽造をしている幸のもとに、アンナとメイが逃亡を依頼しに来るのです。
二人は未成年ですが、事情があって闇デリヘルで働いていました。
しかもヤクザに追われている上、過去のリンチ殺人事件に関わっているらしく…。
これだけを読むと、裏社会を描いたクライムサスペンスのようですが、それだけではありません。
実は幸には、「異界に人を送り出す」という特殊な力があるのです。
異界とは文字通り別世界で、そこには痛みや苦しみはありません。
自分の願望だけが反映される、優しく美しい世界です。
幸は書類偽造の傍ら、絶望の淵にいる人々を、この安息の地へと送っていたのです。
偽の身分証で人生を再スタートできるなら良し、それでも絶望から逃れられないのなら、その時は異界へ……、ということです。
苦しみが大きい人ほど、異界行きを選択しがちです。
しかし異界に行くと、二度と現世に戻ってくることはできません。
これは、迷いますよね。
苦しみながら現実を生きるか、それとも全てを捨ててでも逃げたいか。
安易に選択できることではないと思います。
つまり『擬傷の鳥はつかまらない』はある意味、究極の選択を迫る物語なのです。
希望と絶望とを秤にかけるわけですね。
このあたりが『擬傷の鳥はつかまらない』のファンタジー要素であり、ただのハードボイルドでは終わらない、興味深く読める部分だと思います。
異界に送る真の意味とは
依頼主を異界に逃がすかどうかは、幸が決めます。
絶望の大きさを十分に見定めてから、異界に送るのです。
作中では幸は、アンナには異界に行く資格が十分にあると判断しました。
しかしそれは言い換えれば、幸が「この世に生きる意味はない」と認めたことになります。
絶望だらけで、もはや希望を持てないから、異界に送るのです。
そのため幸は、誰かを送るたびに、この世に対するやるせなさで胸を痛めていました。
ここもまた、『擬傷の鳥はつかまらない』の見どころです。というのも、実は幸自身が、辛い過去に囚われているからです。
幸は中学生の時に両親を亡くし、妹を一人で何とか養っていました。
幼馴染のミソラは、最初は力になってくれましたが、途中で我が身可愛さに裏切ります。
その結果妹は死んでしまい、逆上した幸はミソラを自らの手で殺めるのです。
その後失意の底に沈んだ幸は、家も名も捨てて裏社会で生きることにしました。
幸が逃がし屋の仕事をしているのは、妹やミソラに対する贖罪の思いからです。
しかし逃がせば逃がすほど、幸は罪滅ぼしどころか、現世に絶望していきます。
気持ちは一向に安らぐことがなく、生きる意味はどんどん失われていく……。
「逃げた先に、本当に幸福はあるのだろうか?」
これがまさに、『擬傷の鳥はつかまらない』のテーマでしょう。
物語が進むにつれて、幸はアンナが追われる理由や、追う者が秘めている思い、メイの転落の真相を知っていきます。
そしてそれらを通じて、このテーマについて、自問自答することになります。
そしてラストで結論を出すのですが、その決断には胸が震えます。
なんとも味わい深く、余韻を残すラストシーン、ぜひ堪能してください。
未来や希望を信じてみたくなる物語
この作品はデビュー作でありながら、第七回新潮ミステリー大賞を受賞しました。
ハードボイルドあり、ファンタジーあり、人生哲学ありで非常に奥が深く、読了後も心にずっしりと残る、印象的な作品だと思います。
中でも特筆すべきは、やはり「生きるか逃げるか」という重厚なテーマ。
作中で、主人公の幸はもちろんですが、読み手も何度も問われることになります。
「乗り越えることは、本当にできないのか?」と。
今の世は何かと辛いことが多いですが、それでも何らかの希望はあるはずです。
美しいもの、楽しいこと、おいしいもの、何でも構いません。
明日を生きる糧となるものを見出して、今日をなんとか耐えてほしい。
過去を受け止め、未来へと気持ちをつなげてほしい。
そんな切なる願いが、『擬傷の鳥はつかまらない』には込められている気がします。
消せない過去に悩んでいる方は、多いと思います。そのような方にこそ、ぜひ読んでいただきたい作品です。
身につまされながらも感動を覚え、勇気をもらい、未来を信じてみたくなるのではないでしょうか。
ちなみに、タイトル『擬傷の鳥はつかまらない』にある「擬傷の鳥」ですが、これは傷ついて飛べないふりをする親鳥のことです。
敵の注意を自分に向けることで、卵やヒナを守ろうとするわけですね。
尊い自己犠牲とも言える行為ですが、作中の一体何が、この「擬傷の鳥」に該当するのか、そしてなぜ「つかまらない」のか。
そのあたりを考えながら読むこともまた、本書のひとつの愉しみ方だと思います。
心を揺さぶられること間違いなしの名作ですので、ぜひ手に取り、じっくりと味わってみてください。